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特集

アンコールの興亡

JULY 2009


 寺院群のなかで最も豪華で、世界最大の宗教建築と称されるのがアンコール・ワットだ。ハスの花をかたどった美しい高塔を、ポルトガル人宣教師たちが“見つけた”のは16世紀後半のことだが、その頃のアンコールはすでに往時の輝きを失って滅亡し、南に逃れた人たちが細々と王朝を継承していた。

謎に包まれた文明崩壊の原因

 侵略、改宗、海洋交易の発達−。アンコール王朝が滅びた理由については諸説ある。だがどれも推測の域を出ない。アンコール・ワットをはじめ各石造寺院の扉の側柱や石柱には1300もの碑刻文が刻まれているが、王国の崩壊を説明するようなものは残されていないのだ。

 最近の発掘調査では寺院よりも、広大な都市を支えた社会基盤の研究に重点が置かれ、新説も浮上している。たくさんの小さな首長国を束ねて一大王国を築き上げるには、東南アジアを襲う季節性の豪雨(モンスーン)を管理することが不可欠だった。高度な技術によって、アンコール王朝は最も貴重な資源である雨水を管理したが、そのコントロールを失うと同時に、衰退せざるを得なかったのではないだろうか。

 何世紀もの歳月と近年の戦火を耐え抜いたアンコールの彫刻には、往時の人々の日常が今も息づいている。寺院正面の浮き彫りには、将棋に興じる二人の男性や、出産する女性の姿が描かれている。だが、調和と悟りに満ちた地上の楽園の光景とともに、戦闘の場面も登場する。近隣のチャンパ王国からトンレサップ湖を渡って迫りくる兵士たち。だがこうした場面が回廊の壁面に刻まれて残っているということは、勝利したのはアンコール王朝である。

 東のチャンパ王国と西の強大なアユタヤ王国にはさまれて、アンコールは絶えず外からの脅威に翻弄されていた。また歴代の王は一夫多妻だったため、王位継承権を巡って争いとなり、王子たちは常に策謀を巡らせることとなった。オーストラリア・シドニー大学の考古学者で、「大アンコール・プロジェクト(GAP)」と名づけられた調査の共同責任者を務めるローランド・フレッチャーも、「アンコール王朝では政治的に不安定な時期が何度もありました」と語る。

 アンコール王朝は数々の戦いを切り抜けたが、最後は戦いに敗れて消滅したのではないかと考える研究者もいる。アユタヤ王国の年代記には、同国の戦士たちが1431年にアンコールを「奪取した」と記されている。今から100年前、フランスの歴史家たちはアンコールの繁栄を伝える逸話と西洋の旅行者が見た遺跡の荒廃ぶりを結びつけるため、この年代記に書かれているあいまいな記述を根拠にアユタヤ侵略説を唱えた。

 だがフレッチャーはこの説に懐疑的だ。文明が成長し、栄え、滅びた原因の解明に力を入れる彼によると、初期の研究者は侵略と征服がくり返されたヨーロッパ史の感覚でアンコールをとらえていたと言う。「アユタヤ王がアンコールの地を“奪取した”というのは、確かに、王権を象徴する何かを持ち帰ったという意味かもしれません。しかし、息子に与えるつもりの都市を破壊する親はまずいないでしょう」

 というのも、後にアユタヤ王は、自分の息子にアンコールを統治させているのだ。

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